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国生明神

国生明神

そもそもの始まりは、国を憂い民を想う国生明神のご神託でした。 飛鳥時代の終わり頃、今から1300年以上前のことです。 毎夜放たれるまばゆい光に導かれた役行者が、この地にて老翁の姿をした国生明神に遭遇し、国生寺(今の安生寺)を開山しました。 その後もたびたび姿を現した国生明神、あるときは羽衣をまとった美しい天女の姿であったそうです。

なりたち

飛鳥時代の終わり頃、修験道の開祖である役行者によって創設された安生寺は当初、国生寺と名付けられました。 そのいきさつは寺伝、和州宇智郡安生寺略縁起(元禄16年)に記されています。 以下にそのさわりを紹介します。

遙か当寺の由来を尋ぬるに、初め国生寺と号す。 人皇41代持統天皇の御代(690-697)に当国葛城山の南に当って大光明常に現することあり。 照らすこと300里也。 見る者それを怪しんで恐れを成し、聞く人それを判じては信(信仰心?)を興す。 不思議なことである。 未だ一決の所を知らず。

そのころ葛城山に役小角(えんのしょうかく、役行者)という人あり。 常に彼、光彩を見る毎に奇異也として、その本源を極めし事を欲す。 然(そう)して歩行(かちよりあゆ)み、光に迫ってその起こりを尋ね、宇智の郡今井の庄に至る。 そこに1本の大樹あり。 その陰にして老翁に逢う。 小角(役行者)はそれを異人なりと知って問いかけた。 「汝は誰人ぞや? 毎夜此の光を現ずるを怪し」と。

翁、答えて言うには、「我は此の所の地主である。 この地に久しく住み、天下の安全を守護し、国土の豊饒を祈ること怠りなし。 然してこの頃、衆生の作業を見るに山谷に猟して己が利養とし、河水に釣して生命を貪るをのみ要とせり。 のみならず、幻影の楽に耽(ふけ)り、空(むなし)く不浄の好色におぼれて曽(かつ)て因果の道理を知らず」「豈(あに、どうして)、仏名を唱うるをあらんや。 我、それを悲むて切(せつ)なり。 行者、願わくは仏法の菓(このみ、木の実)を布(しい)て、群衆の飢えを救い給え。 我は国生明神なり」と。

御聲(こえ)ばかり耳に残り、老翁は忽(たちまち)消え失せぬ。 そこにおいて小角(役行者)、その神託の新(あらた)なる(これまでにない)ことを尊び、手づから斧をめぐらしてついに十一面の尊像を作り一堂に安置し、外(ほか)に諸堂を構う。 然して累年国家の安全を祈り五穀成就の祭礼をなす。 役君(役行者)また五つの鬼面を作りて国生の祭りを初む。 今の儺々(だだ)という是なり。 小角(役行者)恒(つね)に憂うらくそれ儺々の、・・・・・(中略)・・・・・暫(しばら)くあって大嶺の釈迦が嶽、大きに鳴動することあり。 人、それを怪しめり。 数日あって地面のひと所が大いに裂けて中より一(ひとつ)の大法螺(ホラ貝)出たり。 遙かに飛びて国生の寺門に落つ。 則、取り得て霊器とす。 今にいたるまで、祭礼ごとに用いる所の貝なり。 不思議といえども、餘(あまり)あり。

あるとき国生大明神、容(かたち)を顕(あらわ)し小角(役行者)に宣わく、我、昔の諸願、今者已(すで)に満足すとなり。 角(役行者)、則、その神容をみるに御長(みたけ)丈(じょう、10尺)あまり。 天女の形にして天衣を着し。 六臂(ろくひ、腕が6本)にして種々の持物を取り、7頭の猪子に乗れり。 且つまた神言に四魔三障の難あり、遠く乾坤の外に払い、東夷西戎(とういせいじゅう)の悪共に四海の底に亡びんと、言い終えてまた消果す。

角(役行者)、思惟すらく容白、偏(ひとえ)に魔利支尊天なりとて、即ち国生明神の真の姿を是と定む。 行者(役行者)自ら影向(ようごう、神仏が仮の姿で現れること)神祇(じんぎ、天の神と地の神、神々)のすがたを模(うつし)め、板にちりばめ末代に伝え今猶あり。

それ山号をば神光山といい、寺号をば国生寺と名づく。 草創の初め神光あり。 それによりてかくの如く(神光山と)呼ぶ。 我は国生(明神)なりとの言葉によりて国生寺なり。 然るに小角(役行者)つねに神道を得て、雲に乗り、鬼神を従えて奴(やっこ)とす。 空中を行き水上を歩(あゆ)んで飛行自在なり。 ここにおいて小角(役行者)平生思うらく。 度すべき(わけを言い聞かせて承知させる)有情(うじょう、非情の反対)、四方に溢れ悲しむべき群類、国々に満ちり。 我今、ここに当たらば、巷の衆生をのみ度(ど)め、普(あまね)く法男の衆を漏らしなし。 大悲我ありといいて即ち去る。 何(いず)くに行く事を知らず。 その後、大寶元年正月、儺々をはやす時、虚空より小角(役行者)来れり。 形像、本(物?)の如し。 されば此の小角(役行者)は観世音の分身として、神道不測の妙体なり。 南円浮提(なんえんぶだい)に縁をむすび、衆生済度(しゅじょうさいど)術(みち)有難かりし優婆塞(うばそく、男性の在家信者)なり。 また・・(後略)・・・・・・

つまり、当寺の創設当初の寺名、神光山国生寺の由来は、つぎのようになります。
山号の『神光山』は、役行者が輝く光の正体を探ってこの地にたどりつき国生明神(の化身)に巡り会ったことによります。 さらに寺号の『国生寺』はこの国を守り、人々の幸福を祈る国生明神の願いに応えることこそが当寺の使命との思いが強かったことによります。 ところが・・・です。 この寺名は10年あまり後、別の名前に変わることになります。

神光山安生寺というのが、改名後の当寺の寺名です。 安産と子授けに霊験あらたかなお寺・・・ということで評判になっていくわけです。

イラスト

絵馬


看板

国常立尊(国之常立神)、くにのとこたちのみこと(くにのとこたちのかみ)