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子授け・安産・高齢出産のお寺 安生寺

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安生寺略縁起

和州宇智郡安生寺略縁起(元禄16年)

抑(そもそも)、当寺の由来を尋ぬるに、初め国生寺と号す。 人皇41代持統天皇の御代(690-697)に当国葛城山の南に当って大光明、常に現することあり。 照らすこと300里也。 見る者それを怪しんで恐れを成し、聞く人それを判じては信(信仰心?)を興す。 不思議まちまちにして、未だ一決の所を知らず。

その頃、葛城山に役小角(えんのしょうかく、役行者、634-701)という人あり。 常に彼、光彩を見る毎に奇異なりとして、その本源を極めし事を欲す。 然して歩行(かちよりあゆ)み、光に迫ってその起こりを尋ね、宇智の郡今井の庄に至る。 そこに1本の大樹あり。 その陰にして、老翁に逢う。 小角(役行者)はそれを異人なりと知って問いかけた。 「汝は誰人ぞや? 毎夜、此の光を現ずるを怪し」と。

翁、答えて言うには、「我は此の所の地主である。 この地に久しく住み、天下の安全を守護し、国土の豊饒を祈ること怠りなし。 然してこの頃、衆生の作業を見るに山谷に猟して己が利養とし、河水に釣して生命を貪るをのみ要とせり。 のみならず、幻影の楽に耽(ふけ)り、空(むなし)く不浄の好色におぼれて曽(かつ)て因果の道理を知らず。 豈(あに、どうして)、仏名を唱うるをあらんや。 我、それを悲むて切(せつ)なり。 行者、願わくは仏法の菓(このみ、木の実)を布(しい)て、群衆の飢えを救い給え。 我は国生明神なり」と。 御聲(こえ)ばかり耳に残り、老翁は忽(たちまち)失せ訖(おえ)ぬ。

そこにおいて、小角(役行者)、その神託の新(あらた)なる(これまでにない)ことを尊び、手づから斧をめぐらして、ついに十一面の尊像を作り、一堂に安置し、外(ほか)に諸堂を構う。 然して累年、国家の安全を祈り、五穀成就の祭礼をなす。 役君(役行者)また、五つの鬼面を作りて、国生の祭りを初む。 今の儺々(だだ)という是なり。 小角(役行者)恒(つね)に憂うらく、それ儺々の法に必ずや法螺を用いゆ、それ一切所々、心を自在にして(人をして)、清浄なる事を得せしむる事を表すなり。 今、それを欠り得んてを思う、といい訖(おえ)て即、黙す。 暫(しばら)くあって大嶺の釈迦が嶽、大きに鳴動することあり。 人、それを怪しめり。 数日あって地面のひと所が大いに裂けて、中よりひとつの大法螺(ホラ貝)出たり。 遙かに飛びて国生の寺門に落つ。 則、取り得て霊器とす。 今にいたるまで、祭礼ごとに用いる所の貝なり。 不思議といえども、餘(あまり)あり。

あるとき、国生大明神、容(かたち)を顕(あらわ)し、小角(役行者)に宣わく、我、昔の諸願、今者已(すで)に満足すとなり。 角(役行者)、則、その神容をみるに御長(みたけ)丈(じょう、10尺)あまり。 天女の形にして天衣を着し。 六臂(ろくひ、腕が6本)にして種々の持物を取り、7頭の猪子に乗れり。 且つまた神言に、四魔三障の難あり、遠く乾坤の外に払い、東夷西戎(とういせいじゅう)の悪、共に四海の底に亡びんと、言い終えて、また消果す。

角(役行者)、思惟すらく容皃(ようぼう、容貌)、偏(ひとえ)に魔利支尊天なりとて、即ち国生明神の本地を是と定む。 行者(役行者)自ら影向(ようごう、神仏が仮の姿で現れること)神祇(じんぎ、天の神と地の神、神々)のすがたを模(うつし)め、板にちりばめ末代に伝え今、猶あり。

扨(さて)、山号をば神光山といい、寺号をば国生寺と名づく。 草創の初め神光あり。 それによりてかくの如く(神光山と)呼ぶ。 我は国生(明神)なりとの言葉によりて国生寺なり。 然るに小角(役行者)つねに神道を得て、雲に乗り、鬼神を従えて奴(やっこ)とす。 空中を行き水上を歩(あゆ)んで飛行自在なり。 ここにおいて小角(役行者)平生思うらく「度すべき(わけを言い聞かせて承知させる)有情(うじょう、非情の反対)、四方に溢れ悲しむべき群類、国々に満ちり。 我今、ここに当たらば、巷の衆生をのみ度(ど)め、普(あまね)く法男の衆を漏らしなし、大悲我あり」といいて即ち去る。 何(いず)くに行く事を知らず。

その後、大寶元年(701年)正月、儺々をはやす時、虚空より小角(役行者)来れり。 形像、本(物)の如し。 されば此の小角(役行者)は観世音の分身として、神道不測の妙体なり。 南円浮提(なんえんぶだい)に縁をむすび、衆生済度(しゅじょうさいど)術(みち)有難かりし優婆塞(うばそく、男性の在家信者)なり。

また、文武天皇(683-707)大寶元年(701年)に皇后藤原ノ夫人(藤原不比等の長女、ちなみに、同じく長男が藤原武智麻呂)、小角(役行者)の神験(しんげん)を聞こし召して密に貴命ありて宣く我己に懐妊せり。 男子を生むを欲す。 願わくは大行者、加持を励まし給えと。 小角(役行者)の申さるには只、当寺の観音に祈るにはしかずとて。 尊容に祈誓す。 其の後、夫人の御夢に南の方より光明かがやきて一人の比丘(びく)来たれり。 夫人に告げていわく「若有女人設欲求男(じゃくゆうにょにん せつよくぐなん)」といい、夫人夢さめて信心肝に銘ず。 果たして皇子を誕生するを得給わり、御悦び斜(ななめ)ならず。 それ則ち東大寺大佛殿の御願主聖武天皇(701-756年)の御事なり。 それより国生寺を改めて安生寺と号す。

御産、平安の儀を取れり。 小角(役行者)また誓いていう。 「当寺の尊を礼し国生明神を称?する輩は、現世にて諸願円満し、当来には安楽国に生ぜん。 殊には難産を守護し、五体不具なることを得し。 しかして此ならずんば我、永く正覚を取ずして無間に堕つべし」といい終えてまた去る。

其の後、聖武天皇、受禅(じゅぜん、天皇に即位)し給いて天平9年(737年)の春、当地の伽藍悉く建立ありて、天長地久の御願寺となる。

また、49代光仁天皇の御時、773年、御后(きさき)井上の皇后(717-775年)、及び早良太子、他戸親王等は、百川(ももかわ、藤原百川)が讒(ざん)によりて当国宇智の郡に流され給う。 然も皇后只にも、渡らせ給わず。 御懐胎の上、弥(いよいよ)、痛ませ給う。 かくて月もさかりなりければ、御身なやみ給う事しきりなり。 大岡郷(おおおかのさと)栗野という山陰にかくれ居給いて、既にお産の気ありしか甚だ不平難産とぞ聞ける。

山人共々、御痛わしく思い奉り、水など捧げ、様々に仕え奉る處に、老人ひとり進み出て、つつしんで申しけるは「此れ小山のあなたに、霊験新たなる観世音渡らせたまう。 寺号を安生寺と申す」とて具(つぶさ)に役行者の建立の由を述べ、夫人(藤原の夫人)御帰依の事、明神奇特(きどく)等のいわれを語って、
  注釈:いわれとは・・・老人(実は国生明神の化身)がいうには、「あなた(井上の皇后、井上内親王)の父
     親である聖武天皇の縁なのですよ。 そもそも、聖武天皇の母親である藤原の夫人が役行者に帰依し、
     安生寺の十一面観音菩薩さまに男子誕生を祈願し、霊験違わず皇子を授かり、しかも安産であった。
     その皇子こそ、あなたの父親である聖武天皇なのですよ」と
「この仏よく難産を転じて平安なる事を得しめ給う故、ひと皆、子安観音と申す。此の方に向かわせ給い御祈念あるべし」と申し上げける。 皇后、げにも木こりの申す所、其のいわれは有りとて御手水をめして、南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)十一面観世音、願わくは皇子安穏にして誕生あらしめ給えと。 至心に祈り給えければ、時刻をうつさず御悩忽ちに止んで、皇子ご誕生安らかなり。
  注釈:井上内親王(いのえないしんのう、井上の皇后、聖武天皇の長女、光仁天皇の妃)は晩婚で、高齢出産
     を繰り返したスーパーお母さんです。 結婚したのは30歳すぎ。 37歳で酒人内親王(さかひとないし
     んのう、のちの桓武天皇の妃)、45歳で他戸(おさべ)親王を出産、そしてなんと上記の皇子(若宮皇
     子)を生んだのは57歳!! 多くの史実がそれを裏付けており、それに否定的な史実は見当たらない。
その時、彼(か)の老人、相(あい)告げて曰く「我、天地ひらけしより以来、上(かみ)一人より下(しも)萬氏に至るまで苦を抜き楽を興しと欲す。 今、汝が為に来たれり。 我、行方をみるべし」とて南をさして飛去給う。 これすなわち当寺地主国生大明神なり。 それより後、此の所を産ヶ峯(うぶがみね)と名づけ、宮作して井上皇后の御霊を納め産床の明神といえり。 今に至るまで、里人等、恭教(くぎょう)供養の歩みを運び信心清浄の思いを成す者なり。 初め皇后、皇子を抱かせ給い 新地(あらち)にて小山を越え安生寺に御奉詣ある故、此の小坂をアラチ坂と申し習わせり。

其の後、桓武天皇の御時(781-806)、雷電おびただしく鳴りて、疫病(えきれい)国々に起こり人、大いになやむ。 それ、雷神親王の御祟りなり。 雷神と申すは彼の産屋ヶ峯にて誕生ありし、井上皇后の御末子にてまします、生ながら雷神と成り給う故に申し奉る、 今の霊安寺の若宮それなり。

あいまた、52世嵯峨天皇の御代(809-823年)に、空海ご帰朝(806年)のあと、この寺に住を給い七堂伽藍を再興し、六十餘堂の寺院を建て給う。 その後、代々聖主(天皇)の御祈願寺となり、住僧、各官途(かんど)を経る。 また、国生大明神の垂迹(すいじゃく)は、社家者の説により、天照太神宮の徳化日前宮(とっかにちぜんぐう)と同体なりといえり。 然るに当寺の濫觴(らんしょう、ものごとのはじめ)、遠く開基を言えば役行者のあたり、神の示現を蒙りし地なり。

迮(さ、さく)く、再興を尋ねれば、高祖大師真言護持の勝境(景色のいい場所)なり。 諸堂、魏々(高く大きいさま)として甍を並べ房舎麗々として軒をつらぬ。 これより仏法大いに栄え相続来世に絶えずして誠に目出度し寺院なり。

かかる繁花の霊場たりといえども、天災まぬがれ難く、時運変じ難き故、應永年中(1394-1428年室町時代前半、足利義満の頃)、本堂および五大堂、多寶の塔婆、薬師堂、鐘楼、鼓楼を初として、房舎花林に至るまで只一朝の煙となり。 本堂の観音薬師の像、神殿一堂、それに行者の像、それらのみ、わづかに残れり。 その後は絶えて相続する人もなければ、伽藍空しく名のみにて精舎の戸跡に露深し。

然して、天運遂に循環し、時節再び来たれるにや。 歳星(さいせい)久しく積んで南都大乗院の一代安位寺の御門主、此所に居をしめて、㚑(霊)地の廃れたるを嘆き仏法の断絶を悲しみて、自ら勧進沙門となり伽藍残らず再興し消えなんとする燈をかかげ、絶えなんとする恵命(えみょう)を継ぎたまう。

その後、天文弘治(てんぶんこうじ 室町末期)の時、天下大いに乱れし故、当寺また陣災兵火に亡び果て、本堂ばかり僅かに残れり。 嗚呼悲しいかな。 仰ぎ望むらくは十方尊卑の施財を受けて、喬代の大刹に復し、群生利益(ぐんじょうりやく)の光をかがやかさんを希(こいねがう)のみ。者れば(てふれば、・・というわけで)当寺の略伝、仍而如件(よってくだんのごとし)。

右は、国生大明神・社司、久保日向守長次の望むところに依って、元本の如く、之を書写しめ畢(お)わんぬ。
干時(時に)元禄十六(癸未)年(1703年)正月七日   中原重経